挫折の向こう側にある希望
人生には失敗がつきものだ。
学業、スポーツ、仕事、事業活動、人間関係、恋愛など、人間であれば誰しも人生のどこかで失敗を経験する。
自転車に一度も転ばずに乗れた人はいないだろう。野球の経験者で三振したことのないプレイヤーはいないだろうし、ピアノを練習して一度も音を外さなかった人もいないはずだ。
人間であれば誰もが失敗を経験するし、そこから学びや教訓を得て人は成長していく。その意味で失敗の蓄積は停滞ではなく前進といえるだろう。
問題は失敗や間違いで心が折れて挫けてしまい、立ち上がれなくなった場合だ。
それを挫折と呼ぶ。
挫折という言葉には「人生の転落」や「夢の断絶」といった負のイメージがつきまとう。
だが必ずしもそうではない。
むしろ挫折は、あなたを本来あるべき場所へと導く希望の西風であり、人生最大の恵みとなることさえある。
それは高い視座から物事を眺める視点がなければ気付けないものだ。
禍福は糾える縄の如し「人間万事塞翁が馬」
中国前漢時代の思想書『淮南子(えなんじ)』には「人間万事塞翁が馬」という逸話が収められている。
この逸話を学ぶことで、この世の幸と不幸は表裏一体の関係にあり、何が禍福をもたらすかわからないということを学べる。
人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)
今より遥か昔、中国の北辺に一人の老人が住んでいた。
ある日、老人の大切な馬が逃げてしまった。
馬はとても貴重な財産であり、村の人々は「不運だったね」と老人を慰めた。
しかし老人は「これが福をもたらさないとは限らん」と答えた。
やがて逃げたはずの馬が数頭の仲間を連れて戻ってきた。
老人は思わぬ幸運に見舞われ、村の人々は「運が良かったね」と祝福した。
ところが老人は「これが禍のもとになるかもしれない」と答えた。
しばらくして老人の息子が落馬で足を骨折した。
村の人々は老人たちを「災難だったね」と慰めた。
しかし老人はまた「これが福をもたらすかもしれん」と答えた。
やがて敵国との戦が起こり、多くの若者が戦場に駆り出されて命を落とした。
しかし老人の息子は足を負傷していたので兵役を免れた。
出来事の表面だけを切り取っても幸運か不運かはわからない
この物語が示すのは「出来事の表面だけを見て幸か不幸かを安易に判断してはならない」ということだ。
たとえば、あなたが夢叶わず、深い挫折に打ちひしがれているとしよう。
人生を捧げて取り組んだにもかかわらず夢は遥か彼方。目標の達成に全力を尽くしても望む結果は得られなかった。そのとき失望と悔しさに押しつぶされ、立ち上げれなくなるのも無理はない。
しかし最初に掲げた夢や目標を叶えられなかったとしても、思いがけず選んだ第二の道が結果的に最善の道だったというケースは往々にしてある。
いや、むしろ最善を尽くした挫折の果てにこそ、それはあるものだ。これは上辺だけの綺麗事でもなければ、安易なポジティブシンキングでもない。
実際にそうした例は数多く存在する。
以下はその一部であり、僕や身近な人々が実際に経験した事例でもある。
- 長年勤めた会社を解雇されたが、起業して自分らしい働き方と生き方を見つけた。
- 第一志望の大学に入れず落胆したが、別の大学で出会った女性が後の妻になった。
- ケガでプロスポーツ選手の道は絶たれたが、トレーナーとしてのキャリアを築いた。
- 数万人に一人の病に苦しんでいたが、その体験を綴ったブログが共感を呼び、作家への扉が開いた。
- 絵画の道では成功できなかったが、彫師としての才能が開花し、独自の芸術世界を築き上げた。
最善を尽くした末の挫折には必ず意味がある
努力が必ず報われるとは限らない。
この世界には、どんなに努力しても決して越えられない「才能の壁」が確かに存在する。
また、才能があっても不運によって夢を断たれることもある。たとえば病に倒れて力を発揮できなくなったり、ケガによって積み上げた技術を失ったり、仲間の不祥事で出場権を奪われたりといったケースだ。
この世界には、個人の努力や才能ではどうにもならない不条理な出来事が起こる。
では望む結果を得られなかった努力や経験に意味はないのだろうか?最初に思い描いた夢が果たして本当に最善の道だったのだろうか?
人は才能の限界や不運に直面したときに深い挫折を味わう。だが、その過程で培った経験は決して失われない。さらに、その挫折を通じてしか開けなかった選択肢や、新たな可能性が芽生えることもある。
一見すると不本意な遠回りに見えても、その道でしか出会えない縁や機会が必ず待っている。
冒頭で述べたように、挫折はあなたを本来あるべき場所へと導く希望の西風であり、ときに人生最大の恵みとなり得るのだ。
いつか必ず挫折を経験した本当の意味がわかる
失敗は挑戦の証であり、間違いは学びの足跡。そして挫折は可能性の分岐点であり、新たな未来が拓かれるサインだ。
現状は苦しくとも、いつか必ず「あの経験があったから今の自分がある」と思える日がくるはずだ。焦って立ち上がる必要はないし、辛い出来事や苦しい状況を無理にポジティブに捉える必要もない。春になれば自然と花が芽吹くように、時が熟せば運命の方から必ず合図が届くだろう。
もしかしたら、あなたの失敗や間違いを嘲笑う人がいるかもしれない。挫折から立ち上がろうとしても、物知り顔で「もうやめといたら?」と冷笑する人がいるかもしれない。
そうした人々の声に耳を傾ける必要はない。言いたい人には言わせておけばいい。
転んだのは進もうと決意したからだ。
いつの世も他者の失敗を笑うのは、挑戦とは無縁の場所にいる人たちなのだ。
その逆境には必ず大きな意味がある。
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