苦しみばかりの人生に意味はあるのか?名著『夜と霧』に学ぶ人生の意味

人間の生きる意味を問い続けた心理学者「ヴィクトール・E・フランクル」

釈迦は「人生は苦である」と説いた。
この世の一切は思い通りにならず、生きることは苦しみであると。

そもそも人間は誰一人として死という運命から逃れることはできず、生きることは死に向かう旅であるともいえる。

たとえ何かを成し遂げても、望むものを手に入れても、いつか必ず死がそれを奪っていくのなら、果たして生きるということに何の意味があるのか?ましてやこの苦難と困難に満ちた人生を、もがき苦しみながら生きることに一体どれほどの意味があるのか?

そのヒントを与えてくれるのがヴィクトール・E・フランクルの著書『夜と霧』だ。

『夜と霧』は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行ったユダヤ人への迫害および虐殺行為「ホロコースト」の凄惨な体験を描いた記録だ。

ホロコーストを生き延びたフランクル博士は人生の意味についてこう語っている。


生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。
苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。
苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。


引用:『夜と霧 新版(p.113)』

フランクル博士のこの言葉の真意を理解するためには、彼が経験した想像を絶するほどの苦境について知る必要がある。

1933年に国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の独裁政権が誕生

1933年1月30日。

この日、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に任命され、彼が党首を務める国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が政権与党となる。そしてドイツは瞬く間にヒトラー率いるナチス党の独裁国家となり、反ユダヤ主義に基づく差別的な法律が次々に施行されていった。

とくに1935年9月15日に制定された「ニュルンベルク法」の影響は大きかった。これによりユダヤ人の人々はドイツでの公民権を剥奪され、恐るべきことに彼らへの差別と迫害が合法化されるようになったのだ。

ニュルンベルク法


1. ライヒ公民法
ドイツ公民権を「ドイツ人またはその血族」に限定する法律。
これにより、ユダヤ人は選挙権や国家の保護を受ける資格などを失った。

2. ドイツ人の血と名誉を守るための法律
ドイツ人とユダヤ人の結婚や婚外交渉を禁止する法律。
これにより、ユダヤ人とドイツ人の個人的な関係まで厳しく規制され、違反者には刑罰が科された。

フランクル博士は1942年に強制収容所に収容される

第二次世界大戦中の1942年9月。

当時37歳だったフランクル博士はユダヤ人であるという、ただそれだけの理由でナチスに捕らえられ、チェコ北部にあるテレージエンシュタット収容所に送られた。その後、あの悪名高いアウシュビッツ強制収容所を含む複数の強制収容所で約2年半を過ごしたという。

連行されたユダヤ人は収容所で身ぐるみを剥がされ、労働できる健康な人とそうでない人に選別された。そして高齢者や病人などの働けない人は容赦なくガス室に送られた。

強制収容所では過酷な重労働を強いられ、与えられる食事は水のようなスープとわずかなパン。むき出しの冷たい土間の部屋に大勢が押し込められノミやシラミが飛び交うなかで眠る日々。

ナチスによるユダヤ人への迫害は1945年4月に首都ベルリンがソ連軍に占領されるまで続き、約600万人のユダヤ人が犠牲になったという。

フランクル博士は著書の『夜と霧』でこう語っている。


被収容者は生きしのぐこと以外をとてつもない贅沢とするしかなかった。


引用:『夜と霧 新版(p.54)』

被収容者番号「119104」

「119104」。

『夜と霧』の表紙にも記されているこの数字はフランクル博士の被収容者番号だ。

強制収容所での彼はヴィクトール・E・フランクルという一人の人間ではなく、「119104」という番号を持つ使い捨ての労働力でしかなかった。監視兵による理由のない暴力など日常茶飯事で、名前も職業も金銭も、そして人間として生きる権利さえも奪われたフランクル博士。

同じくナチスに連行された妻や両親の安否も不明で自分もいつガス室に送られて処刑されるかかわからない。

この究極の苦境のなかで彼は己の心にこう問いかける。


わたしのこの苦しみにはどんな意味があるのだ。
この犠牲に、こうしてじわじわ死んでいくことに、どんな意味があるのだ。


引用:『夜と霧 新版(p.66)』

強制収容所では終わりの見えない苦しみと、いつ処刑されるかわからない恐怖が日常と化し、やがて多くの被収容者がこの悲劇に対して無感覚・無関心になっていったという。これは極度のストレスが持続する異常な状況下で、精神の崩壊を防ぐために本能的な防衛反応が働き、無意識の内に感情や感覚をシャットダウンしたものと考えられる。

そんな極限状況のなかでフランクル博士は驚くべき光景を目にした。

それは自分自身も飢えと寒さに苦しみ、いつ処刑されてもおかしくない状況のなかで、仲間に思いやりのある温かい言葉を投げかけ、なけなしのパンを分け与える人の姿だった。

そうした人は決して多くはなかったものの、その姿を見たフランクル博士はこう思ったという。


人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができる。
しかし与えられた環境でいかにふるまうかという人間としての最後の自由だけは奪えない。


引用:『夜と霧 新版(p.110)』

どれだけ過酷で悲惨な状況にあっても人間としての尊厳を失わず、他者に対して思いやりのある態度を示し続ける人。それを見たフランクル博士はたとえどんな状況であろうとも自分の態度や行動を選択する自由が残されており、その自由は誰にも奪うことができないという気付きに至ったのだ。

これをフランクル博士は「態度価値」と呼んでいる。

フランクル博士は人生の意味を見出すことで心の病を癒す心理療法「ロゴセラピー」の創始者であり、人間が実現できる価値は「創造価値」「体験価値」「態度価値」の3つに分類されると説いた。

その中で、どんな状況になっても決して失われないのが態度価値だ。

  • 創造価値:何かを創り出すことで満たされる価値
    絵画を描く、小説を執筆するなど、創造的な活動を通じて得られる価値を指す。
  • 体験価値:何かを体験することで満たされる価値
    美しい風景を鑑賞する、愛する人と過ごす時間など、感覚的な体験を通じて受け取る価値を指す。
  • 態度価値:心の在り方によって満たされる価値
    困難な状況や耐え難い苦しみに直面したとき、現実に対する自分の在り方によって生まれる価値を指す。

たとえば病気や障害で体の自由を失ってしまった、あるいは大切な人を亡くしてしまった場合、創造価値と体験価値はその実現が困難になるだう。しかし与えられた運命にどんな態度で臨むのか、その心の在り方を選択する自由は誰にも奪えない。

そして辛く苦しい状況に陥ったとき、その運命をどのような態度で受け止めるのか。それこそが人間の真価が問われる瞬間であり、どんな選択をするのかを人生に問われているのだとフランクル博士は語っている。


もういいかげん生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々そして時々刻々問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。


引用:『夜と霧 新版(p.130)』

1945年4月27日。

この日、テュルクハイム収容所がアメリカ軍によって開放され、フランクル博士はついに自由の身となった。

しかし強制収容所から開放されたフランクル博士を待ち受けていたのはあまりにも過酷すぎる現実だった。最愛の妻であるティリーは強制収容所で帰らぬ人となり、さらに父も母も同じく強制収容所で命を落としていたのだ。

フランクル博士は深い悲しみと絶望に沈みながらも立ち上がり、強制収容所での壮絶な経験を多くの人に伝えようと決意する。こうして1947年に出版されたのが『夜と霧』の原著だ。『夜と霧』は日本では1956年に出版され、発売から半世紀以上経った今でも読み継がれるベストセラーとなっている。

己の悲運や運命を呪いながら生きるのではなく、苦しみを通して学んだ人生の意味や人間性の本質を伝えること。それがフランクル博士の生きる意味であり、人生に示した答えだったのではないだろうか。


人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ。


引用:『夜と霧 新版(p.138)』

人間が生きることには常にどんな状況でも意味がある

苦しみばかりの人生に意味はあるのか?

人生はさまざまな苦しみに満ちており、ときに不幸な出来事はこちらの都合とは無関係にやってくる。こんな苦しい思いをするために生まれたきたのかと、己の運命を呪いたくなるときもある。

しかし、その不条理な現実に対して、どのような心持ちで生きるのかは自分自身の選択にかかっている。

自分に与えられた運命をただ嘆くのか、それともそこに何らかの意味を見出すのか。それを決めるのは他の誰でもない自分自身なのだ。

フランクル博士はどれだけ苦しい状況にあっても、人は自らの在り方を選択する自由があることを証明した。そして人間はその苦しみの中で、どう在るのかを人生に問われている存在だと語っている。

つまり僕たち人間は人生に対して生きる意味を求めるのではなく、自らの行動をもって人生に生きる意味を示さなくてはならないののだ。

反 逆 の 幸 福 論
生きる意味は与えられるものではなく自らの生き方で示すもの。

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アラン・スミシー

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